芽吹き・千曲川・誠をたどり、断崖の堂に導かれる
このコーナーでは、私の散歩の記録として、半日ほどかけて史跡や寺院を巡ったときの出来事や、そのとき心に浮かんだことを綴っていきます。
専門的な話ではありませんが、歩きながら考え、感じたことをそのまま残しています。ご縁があれば、どうぞお付き合いください。
業務関係のブログはこちらもご覧ください。
今回は長野県小諸市にある布引山釈尊寺というところに行ってきた。長野県は以前住んでいたところで、名前は良く聞いていたが、実際に行ったのは初めてになる。最後はきつい山のぼりになったが、興味深い体験になった。かつて住んでいた佐久市岩村田から片道5時間超の行程であった。
第1章 芽吹きに呼ばれる
2026年 3/22 10時40分ごろ、岩村田を出発。佐久平駅の北西側を抜け、新しくできた小諸へ向かう道を歩く。歩き出してしばらくすると、だんだん街中から郊外にでてきた感じがしてきた。ふと路傍を見るとまだ冬の名残を残した地面の上に、小さなフキノトウが芽を出していた。

毎年見ているはずの光景なのに、その日はなぜか強く心に残った。去年のフキノトウではない。親も違うのだろう。それでも、そこには毎年変わらず現れてくる命のはたらきというものがあるのだろうか。命には限りがある。けれども、個々の命を超えて繰り返し現れてくるものこそ、もっと深いところで続いているのではないか、という思いがふとよぎった。
昔、座禅道場に通っていたころ、公案で「父母未生以前本来の面目如何」という言葉に触れたことがある。意味は今でも相変わらずさっぱりわからない。ただ、この日のフキノトウを見たとき、突如として悟るような鮮やかさではなく、じわっと染みてくるような感じを味わった。一本一本のフキノトウはもちろん少しずつ違う。でも種としてのフキノトウや、広く言えば命といったものは深いところで共通に流れている。そしてそれは個々の命にとっては“わかるもの”ではなく、“感じるもの”なのかもしれない。
第2章 穴城から見た流れ
小諸市四谷から141号に入り、西へ進んで小諸駅へ向かった。懐古園に着いたのは13時近くだった。園内の手打ちそば屋でクルミ蕎麦を食べる。歩いてきた身体に、あの素朴な懐かしい味、うまさがよくしみた。

その後、軽く園内を見て回り、天守台に立った。小諸城は「穴城」と呼ばれているそうだ。本丸が城下町より低い位置にあるからだという。確かにここは、小諸の市街地から斜面を下ってきた崖っぷちにある。そういえば昔ずいぶん長いこと住んでいて、懐古園にも子供を連れて何回も来たのに、こんなことも知らなかった。今やっと気が付く。最初は不思議に思ったが、実際に立ってみると、これはこれで、理屈にあった配置なんだろう、と思う。上から威圧するというより、谷と断崖と川の理(ことわり)に従って守りを築いた城だったのだろう。

天守台跡から見た千曲川は、ただきれいだっただけではない。人の営みよりずっと長い時間を生きている川の流れ、それは「繰り返し現れてくる命」と、どこか通じるものがある。人の世の勝ち負けや栄枯盛衰とは別に、もっと長く、静かに続いていくものがあって、そのことを、天守台からの景色が教えてくれたように思う。
第3章 誠の墓、川沿いの道
懐古園を出て大久保橋を渡り、千曲川沿いを布引観音へ向かった。その途中で、偶然地図に「武田信繁の墓」とあるのを見つけ、急遽立ち寄ることにした。川沿いのこの道は、いまでは主流の道筋から少し外れているようで、車の往来も少なく、歩くにはかえってちょうどよかった。住んでいた頃もこの辺りを車で通ることはあまりなく、歩いてきて初めて気づいた場所だった。

案内板には、川中島合戦で討たれた信繁の首級が小諸へ運ばれ、部下たちの尽力によってこの地に葬られたという話が記されていた。そこで私は、山寺佐五左衛門という名を初めて知り、そして、その行動に強く心を動かされた。

大きな歴史には、信玄や謙信の名は出てくる。だが、主君の首級を運び、葬る場所を願い出て、静かに弔おうとした部下の名は、一般人が見るような普通の歴史書にはほとんど現れない。しかもその墓所は、立派な寺の境内に守られているのではなく、近在の農家の墓所の中に、ひっそりと置かれていた。小諸市教育委員会の案内板と、遠くに武田菱の見える塔頭があり、それでもってかろうじて「ああ、ここなんだ」とわかる。そのありさまが、かえって胸に迫った。
華々しい顕彰ではなく、忘れられそうになりながらも、ぎりぎりで残っている誠。ここで感じたのは、戦国史への興味というより、人が人を見捨てまいとする心の重さだ。川中島の激戦では、前半上杉勢に押し込まれて戦死して上杉勢に奪われた信繁の首級を、後半で部下たちが取り返した、というすさまじい話が残っている。フキノトウが命のはたらきを、千曲川が時間の流れを見せてくれたとすれば、信繁の墓は、人の誠そのものを見せてくれたのだと思う。
墓所を出て、再び千曲川沿いを布引観音に向かって歩く。右手には川、左は断崖絶壁という道。思いもかけない出会いにちょっと興奮気味。静かに流れる早春の千曲川を見ながらひたすら歩く。

第4章 境界の寺
やがて布引観音の登り口に着く。案内板には、「牛にひかれて善光寺参り」の伝説や、布引山釈尊寺の由緒が記されていた。寺伝では、布引山釈尊寺は神亀元年(724年)に創建されたとされている。伝説では、信心の薄い老婆が牛に導かれて善光寺へ参り、その際に牛が角に掛けて走り去った布が、その後、布引山の岩角にあったことから、ここが霊地として語り継がれてきたという。そういう話を読んで、私は思った。いったい誰が、何のために、こんな断崖に寺を建てようと思ったのだろう、と。

実際に登り始めると、これは参拝というより、ちょっとした山登りだと思った。入口には貸竹杖が何本かおいてあり、“ご自由にお使いください”、とある。竹杖を片手に石段を上がる。谷は深く、道は急で、足元には落ち葉と岩。竹杖なしには登れない。途中で牛岩を見る。伝説を知って見ると、たしかにただの岩ではなく見えてくるのが不思議だ。また、ある洞窟なんかは善光寺に通じている、という言い伝えも書かれていた。だがそれ以上に、この場所そのものが、平地の寺とはまったく違う力を持っているように感じた。そもそも8世紀初頭といえばまだ仏教が伝わってから200年ほどではないだろうか。そんなときにこんな険しい崖にどうしてお寺なんか立てたのか、理解できなかった。

いろいろと調べると、そこは、町の中にあって人を集める寺ではなく、境界に置かれた寺。人の住む世界と、山や岩や崖の世界との境目にある寺。そこで私は、布引観音は「便利だからここに建った」のではなく、「ここでなければならなかった」のではないかと思った。古代の人たちにとって、切り立った崖や渓谷は、ただ危険な場所ではなく、もっと強い気配の宿る場所だったのだろう。そこに人知を超えた何かを信じたとしても、不思議ではない。仏教がまだ新しい宗教だった時代に、いや、もっと古い時代から土地の信仰と結びつくなら、こういう場所が選ばれるのは、むしろ自然だったのかもしれない。
第5章 断崖の堂、導かれるということ
登り切った先で、断崖に懸かる観音堂が見えた。その姿は、写真で見るよりはるかに強烈な印象だった。赤いお堂が、岩肌に抱かれるようにして立っている。人が自然を征服して建てたという感じではない。むしろ、この崖に許されるかたちで、なんとか置かせてもらっているように見えた。

境内からははるか浅間山も見えた。堂と崖と山と空が、一つの景色になっていた。そこに立っていると、ここまで歩いてきたものが、少しずつ一本につながってくる。フキノトウが見せてくれた芽吹き。小諸城から見た千曲川の流れ。信繁の墓で感じた誠。そして、この断崖の観音堂。命、歴史、人の思い、そのどれもが別々ではなく、この日の道のりの中で少しずつ重なっていた。
4時間余り歩き続け、最後は山登りになった。慣れた人には何でもないことかもしれないが、自分にはそれだけでも十分に新鮮だった。自分の意志で歩いてきたつもりでも、実際には、道ばたのフキノトウにも、小諸の城にも、信繁の墓にも、そしてこの布引観音にも、意外性があった。その都度呼び止められ、考えさせられてきたのではないか、そんなことを想像してお参りをする。

観音堂で、ただ黙って礼拝した。ここまで来られたことへの感謝と、まだよくわからないものを、わからないまま受け取らせてもらったことへの感謝。その両方だった。わかることのはかなさ、気づくこと、感じることの大切さ、そういったものに触れられた。
歩いていると、意外なものに気づかされる。一つ一つは小さなことでも、何かテーマを持って歩くと、それらが少しずつつながってくる。今回得たものを一言でいえば、「生きるということは、整った答えとして与えられるのではなく、道の途中で少しずつ示されるものかもしれない」ということだろう。
布引観音は、そういう学び方をするための場所だったと思う。
