巡礼記No4 北区正光寺

川に沿う祈り、川を渡る知恵

2026年2月22日

このコーナーでは、私の散歩の記録として、半日ほどかけて史跡や寺院を巡ったときの出来事や、そのとき心に浮かんだことを綴っていきます。
専門的な話ではありませんが、歩きながら考え、感じたことをそのまま残しています。ご縁があれば、どうぞお付き合いください。

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今回は東京都北区赤羽にある正光寺と、その周辺の水関係の施設を回ってみた。比較的近所だけど、いつもと違って往復歩きのため、全行程6時間におよぶ長いものとなった。

第1章 呼ばれる入口

11:00出発予定が、30分遅れて11:30出発に。でも天気は晴れ。2月とは思えない暖かさで、まさに巡礼日和だった。

正眼寺の参道脇に並ぶ十六羅漢像

正眼寺16羅漢像

自宅から赤羽方面へ向かう道は、いつもの街の景色が少しずつ川の気配に変わっていく。時間が押していたので途中の正眼寺は通り過ぎるつもりだった。ところが、清楚に整備された参道入口がすがすがしく、つい足が向く。境内で目を引いたのは十六羅漢。像の前で軽く一礼すると、焦りがひと呼吸ぶんだけ薄れる。こういう「呼ばれ方」から始まるのが、巡礼なのかもしれない。

第2章 知水という態度

赤羽で昼食をとり、荒川知水資料館へ向かった。展示は想像以上に充実していて、洪水の記録、地形や地盤、地盤沈下の話、海抜ゼロメートル地帯の現実が、数字と地図で迫ってくる。京成本線の荒川鉄道橋が地盤沈下で架け替えられる、(未実施)という話には、思わず足が止まった。

荒川知水資料館(荒川知水資料館 amoa)の入口外観

荒川知水資料館

この話は以前、週刊誌で見た。「危ない」「沈む」というキャッチ―な言葉の強さとは違い、ここでは「どう知り、どう備えるか」が静かに積み上げられていた。恐怖だけでは続かない。続けるためには、知って、備えて、手を動かすしかない。

「治水」ではなく「知水」。自然を完全に“治める”ことはできないが、“知って備える”ことはできる。僕はそこで、法句経の一節を思い出した。「眠っている村を洪水が押し流していくように」(真理のことば 第47偈 中村元訳 岩波書店)。

災いは、こちらの都合を待ってくれない。だからこそ、眠らないために、知る。備える。続ける。そんな営みを前向きな仕事として引き受ける姿勢は、どこか信仰にも似ている(信仰という言葉が大げさなら「信頼」でもいい)。自然を過信しない。そのうえで、人の知恵と共同体の積み重ねを信じる。

第3章 祈りの塔

資料館を出て少し歩くと、旧岩淵水門(赤門)が見えてきた。写真で見るよりずっと端正で、役目を終えたというより、役目を渡したあとも黙って立っているように見える。周囲は水辺公園になっていて、親子連れが遊んでいた。こういう光景を見ると、守られていることが日常に溶け込んでいるのだと実感する。

岩淵水門(青門)から旧岩淵水門(赤門)を望む

現岩淵水門(青門)から見た赤門(旧岩淵水門)

ここは単なる設備投資の遺構ではなく、日本の祖先が自然への畏怖と受容のなかで積み上げてきた「守る」営みの結晶だろう。知ることと備えること、先ほどの法句経のことばを思い出しながら、僕には、水門は建造物というより祈りの塔のようにも思えた。未来を担う子どもたちが、ここを遊び場として、あの赤い門を覚えてくれますように、と願う。

すぐそばの現役の水門(青門)は、さらにがっちりしている。赤門と青門は設備としては違うが、それは時代ごとの“手持ち”の差であって、本質は変わらない。(赤門は1924年竣工、青門は1982年竣工、赤門は起工後後8年かけて完成)

旧岩淵水門(赤門)側から岩淵水門(青門)を望む

赤門(旧岩淵水門)からみた青門(現岩淵水門)

リスクを調べれば巨大化していくのは仕方がないとしても、征服ではなく、利用・共生のための手段として、最善が実装され続けるのだと思った。青門の上から下流を眺めると、荒川は静かに流れていた。赤門から青門を見た景色も、青門から赤門を振り返る景色も、どこか美しい。けれど「静かに見える」ことと、「静かである」ことは違う。そうだよな。資料館で見た数字や記録が、頭の片隅によみがえる。静けさの下に、過去の増水が重なって見える。その差を知っているから、塔は立つ。

第4章 正光寺 大観音と洪水の記憶

正光寺の山門(石柱と門越しに境内を望む)

正光寺山門

青門を離れて正光寺へ向かう。さっきまで見ていた水門の輪郭と、「祈りの塔」を想像しながら。山門の前で唱名して一礼し、境内に入る。白梅、紅梅、しだれ梅が静かに咲いていた。二月の花って、どうしてこう綺麗なんだろう。梅だけじゃない。ここでは水門の硬い輪郭から、季節の柔らかさへ——同じ一日の中で、景色の質が変わるのが面白い。

正光寺境内の紅梅

紅梅

正光寺境内の白梅

白梅

境内の大観音を前にして、後で知ったことがある。あの大観音は、荒川の洪水に悩まされた人々が金品を出し合い、祈りを形にして建立したものだという。資料館の「知水」と、水門で感じた「祈りの塔」が、ここで一本の線になった。祈りは、単に願うというより、現実を受け止める姿勢でもある。洪水があることを受け止め、それがもたらす利点にも感謝し、受け止めたうえで、知って備え、守り、更新し、渡していく。

正光寺境内の大観音像(洪水への祈り)

10mの大観音像

観音像の前では唱名をせず、代わりに、黙って一礼した。山門で唱名して入った時点で、境内全体が僕にとっての道場になっていたのかも。

第5章 渡河点の知恵

正光寺を出て河原に戻り、土手道を西へ歩く。やがて埼京線の鉄橋が近づいた頃、土手から降りる道の傍らに「戸田の渡し跡」があった。説明板には、渡し場がかなり賑わっていたらしい。渡し場で詐欺を働いた人物の話まで載っていた。人が集まる場所には、良くも悪くも人の営みが濃くなる。

中山道「戸田の渡し」跡の碑と解説板

戸田の渡しの石碑(説明板には当時の詐欺師の話も出ている)

なぜ戸田橋のすぐ近くに渡し跡があるのか、と思う。だが次の瞬間、はっとする。橋の近くに渡しを作ったのではない。渡しのところに橋を架けたのだ。

渡河点は、無名の生活者、自然を観察し、利用のためのキーポイントを見出した生活者の眼の系譜が、長い年月をかけて選び抜いた場所なのだろう。橋は、その知恵に現代の技術を重ねた「最後の一押し」だったのかもしれない。

川に沿って「守る」営み(知水・治水・祈り)と、川を横切って「渡る」知恵は、本来独立しているはずだ。前者は川の流れに沿い、後者は川に直交する。二つの軸が、こんなに近い場所で同時に存在する。その交差が偶然なのか、ご縁なのか、僕にはわからない。

ただ、わからないまま受け止めて帰ること――そして受け止めたうえで、必要なところは挑戦すること――、これが今できることだろう。僕は幼少期を戸田で過ごした。その頃の戸田市は、雨が降るとすぐ冠水した町の記憶がある。

だからこの一帯は、僕の中ではどこか救いようのない泥濘地のようにも思っていたところがあった。

だが今回歩いてみると、古い寺が点在し、人が水と共に暮らしてきた手触りが残っている。水郷としての豊かさと、水害としての厳しさ。その両方を受け入れて、共生してきた地域だったのかもしれない。それが都市化の過程でどう変わったのかは、また別の宿題として残しておこうと思う。

川に沿う祈りは受容で、川を渡る知恵は挑戦。二つを同時に抱えた土地の成熟に触れたような一日だった。

この二つの交差が偶然なのか、ご縁なのか、僕には決め切れない。ただ、決め切れないまま受け止めて帰ること――そして受け止めたうえで、必要なところは挑戦すること――それが今回の巡礼で学んだ大切なことだった。

巡礼後の一杯

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