一隅を照らすということ
2026年1月18日
このコーナーでは、私の散歩の記録として、半日ほどかけて史跡や寺院を巡ったときの出来事や、そのとき心に浮かんだことを綴っていきます。
専門的な話ではありませんが、歩きながら考え、感じたことをそのまま残しています。ご縁があれば、どうぞお付き合いください。
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いきなりNo3からなのは、ちょっと不自然ですが、実はNo1、No2の記録があまりなく、ここからようやっと少し整備されてきたからです。ちなみに
No1 慈眼寺(さいたま市)
No2 浅草寺(台東区)
になっています。ここもいずれ思い出しながら書いていくつもりです。
今回は、埼玉県岩槻(正確には埼玉県さいたま市岩槻区)の慈恩寺を訪ねた。坂東三十三観音の12番札所、ということになっているようだ。
僕の自宅がある蕨市から徒歩で五時間ほどかかる距離だが、電車を使わず歩いて向かうことにした。修行というほど大げさなものではない。ただ、僕はひたすら歩く、というのが好きだし、観音さまに向かうには、このくらいの時間がちょうどよいかな、と思ったからだ。
歩いている間、特別なことは何もなかったけど、途中の道端にあった柚子の木や枯れ枝に絡まったカラスウリ(かな?)がとても新鮮。風景は少しずつ変わり、足は重くなるけど、考え事はほどけていく。ただひたすら歩くことで思考が先に行かず、身体の速度に引き戻される。体はだんだんしんどくなるけど、頭のなかはすっきりしてくる、この「考えすぎられない時間」を味わうことが、僕の目的でもあるのだ


境内に入り、最初に目に入ったのは、本坊復興の経緯を記した碑だった。そこに刻まれていた「一隅を照らす」という言葉を見たとき、正直驚いた。というのも、この言葉は、つい最近、私が自分の会社の理念として使おうと定めた言葉だったからだ。
「一隅を照らす」最澄の言葉であり、仏教の世界では有名な言葉だ。それでも、徒歩五時間をかけてたどり着いた寺の境内で、しかも復興に携わった無数の人の名の上に、この言葉が静かに刻まれているのを見たとき、それを「偶然」と片付ける気にはなれなかった。

この碑の基礎の部分には再建に貢献した人たちの名前が多数刻まれている。再建の年がちょうど天台宗開創1200年だったので、それを記念してこの碑をたてたとあった。これは僕の想像だけれど、たぶん、この本坊を再建した人たちは、理念を掲げたわけでも、誰かに評価されたわけでもない。ただ、それぞれが自分の持ち場を照らした。「一隅を照らす」という言葉は、理念としてはよく知られている。しかしここでは、それが思想ではなく、関わった一人ひとりが、自分の持ち場を照らした、その総和なのだ。結果として、慈恩寺は復興した。僕は初めて、この言葉を「事実」として受け取った気がした。
「利他業を以って一隅を照らす」。これは長い時間をかけて、自分の仕事や生き方を振り返り、作り出した理念だけれども、今日ようやく腹に落ちた気がした。
次に本堂へ向かうと、両脇の柱に観音経の一節が掲げられていた。(下写真)

右「善應諸方所 弘誓深如海」意味→“善く、あらゆる方処(場所・状況)に応じて現れ、その誓願は、海のように深く広い”
左「慈眼視衆生 福聚海無量」意味→“慈しみの眼で、衆生を観、そこから生まれる福徳は、海のように限りがない”
注)意味は私の個人的解釈です。
僕は観音経が好きだけれども、こうして改めて文字として並べられているのを見ると、何か意味があるのかな、と思いたくなる。観音経は結構長いけど、なんでこの4句なのか、謎だ。右の部分(善應諸方所・・・)は出だし部分にでてきて、左(慈眼視衆生・・・)は最後のほうだ。これも“謎”。
あえてこじつければ、右は観音の在り方、左はその結果。応じる姿勢と、そこから生まれる果。観音経の前半と後半から選ばれた四句が、二本の柱として本堂を支えている、かなー。(想像)
観音とは、奇跡を起こす存在ではなく、現実の状況に応じ、慈しみの眼で人を見ることで、計り知れない福が「集まって」生じる、そういうことを言っているのだろうか。それがこの柱の配置の“答え”なのかもしれない。

寺を後にする際、太田資正と慈恩寺の関係を記した案内板があった。案内板の説明によると、岩槻城主時代に慈恩寺に対して手厚い保護をしていたとあった。太田資正は太田道灌の系譜に連なる武将である。(確かなことはわかってないが、系譜上にあることは確からしい)戦国後期、北条氏康という圧倒的な一強と対峙し、最終的には敗れた人物だ。
しかし彼は、ただの敗者ではない。軍事合理性だけを見れば、勝てる要素はなかっただろう。しかし、たぶんだけど、負ける要素をほぼ排除しきった稀有の武将だったんじゃなかろうか。早雲以来徹底した内国統治のマネジメントを達成し、甲斐(武田氏)や駿河(今川氏)とのミラクル的な三国同盟を達成した北条氏に対抗することはほぼ不可能。だから北条に下る選択もあったはずだ。それでも彼は、その道を否定し、寺院や人心、信仰の場を守ることを選んだ。なぜか。正確な理由はわからない。でも僕はこう想像している。彼はきっと勝敗の外側に拠り所を置く政治をしたかったのだ。何一つとして確実なものがない時代に、たぶん信仰が“変わらないもの”として、人々の心によりどころを与えることを信じて。その結果、彼は勝たなかったが、何かを残して撤退した。変ないいかたかもしれないが、「キレイに敗けた」だからこそ、その名は今もこうしてここに残っているのではないか。そして、五百年後、今日僕がここに来た。
今回の慈恩寺への訪問は、もちろん何かを「得る」目的ではなかった。歩くことで思考がほどけ、偶然のように出会った言葉や人の事績を求めてのものだった。しかし「一隅を照らす」という言葉に諮らずも再会し、観音経の言葉に出会い、そして勝てなかったが何かを残した先人の生き様に出会った。五時間の歩みは、やっぱり予想外のことを教えてくれた経験だった。
